はじまり
本堂は、県内唯一の七間堂(正面の柱間が七つ)、茅葺きの大規模な本堂として、国の重要文化財に指定されています。江戸時代の建立以来、本格的な修理をせず維持されてきましたが、主要な柱の虫害や屋根の軒の歪みなどの老朽化が進んでいることがわかり、平成22年から足掛け7年をかけて、大規模な改修工事を実施しました。工事は仮設の屋根を掛け、作業場所を確保することから始まりました。
本堂正面全景(修理前)
本堂外陣(修理前)
概要
工事は大きく2段階に分かれます。
第1段階は、本堂をすっぽりと覆う「素屋根」という足場をつくり、解体を行う工事です。解体しながら創建当初の建物がどのようなものであったのか、修理はいつ頃、どのように行われたのかなどを調査し、その成果をもとに、いつの、どのような形に復元(組立)するかの設計を実施します。
第2段階は、復元する設計に基づき組上げていく工事です。修理にあたっては、「破損した部材であっても極力その部材を再用し、取替材は当時の技法・仕様の再現に努める」という考えに基づいて行います。つまり、使える部材はできるだけ使い、取替えなければならないものだけを新しくし、本堂が創建されてからの変遷を明らかにした上で、あるべき姿に復元するということです。
素屋根の設置
須弥壇下発掘調査
年輪年代調査
事務所設置
第1段階 解体
茅降ろし |
1. 茅葺き屋根の解体 解体前の屋根はかなり傷んでおり、背面には草木が生え、屋根が土と化している状況でした。京都・美山の茅葺き職人によって、土埃が立つ中、行われました。 |
番付札 |
2.建物の解体 解体は、全ての部材に「番付札」という位置を記した木札をつけてからおこなわれました。その過程で、柱が入れ替えられ、天井の部材が床下に転用され、色が塗り替えられるなど、外部から見えないところにも隠された歴史が見つかりました。 |
解体後の柱 |
3.解体終了 作業はクレーンで吊りながら進め、地面に下ろす際は、部材を破損しないよう人の手も加わって丁寧に置いていきます。江戸時代には安全な足場もなく、全て人力で行われました。 |
第2段階 復元と組立
1.部材の補修 解体した部材は、再び使用するために補修を行います。全体の8割ほどは再利用ができ、利用できない部材については、新材を加工しました。解体の結果、延享2(1745)年に外陣の床が板張りから土間に変更され、柱を入れ替える大改修が行われたことがわかりました。 |
部材補修 扉塗り |
2.組立の開始 修理・設計の考え方は、創建されてからの変遷を明らかにした上で、あるべき姿に復元することです。延享2年(1745)年の本来の姿を取り戻すために、傾いた礎石を据え直し、熟練の技で柱を立てていきます。塗装は、調査で判明した黒(墨)と朱色(弁柄)を基本に塗り分けました。 |
柱の組み上げ開始 柱・梁の組み立て |
3.完成 最後に茅で屋根を葺きます。手作業で刈りそろえられた茅は総重量50tとされ、御殿場と阿蘇から運ばれました。本堂の内部では壁、床、天井が貼られ、外周では向拝の基壇や階段などを整備しました。そして、平成28年11月20日落慶をむかえました。 |
茅葺き |
茅葺き屋根が整備され
墨の黒と弁柄の朱が目を引く
美しく荘厳な本堂が
姿をあらわしました
修理によってわかったこと
解体により向拝(本堂前面の庇部分)に飾られていた獅子4体、象2体、龍3体の彫刻を取り外しました。延享2年の年号や「江戸本白銀三丁目」、「江戸神田建大工町」という地名とともに、職人の名が刻まれていました。また、取り外した部材には、万治(1660年頃)と延享(1745年頃) の年号、市内坪ノ内の大工の名が墨書きされていました。
この他、再利用されていた部材の科学分析を行ったところ、17世紀中頃(江戸時代の万治前後)、13世紀後半(鎌倉時代後期)、そして13世紀初頭(鎌倉時代前期)に伐採されたことがわかりました。
最古の部材は鎌倉幕府成立期、当寺を訪れた源頼朝、政子の時代に相当します。宝殿に収められている数々の仏像の制作年代とも重なり、この時期に寺としても、大きな変革があったことが推察されます。
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向拝(ごはい)の彫刻
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鎌倉時代初頭の部材、枠肘木(わくひじき)
保存修理事業の映像記録を
是非ご覧ください。
事業名 | 重要文化財宝城坊本堂保存修理工事 |
工事期間 | 平成22年11月~平成28年11月 |
総事業費 | 8億6990万円 |
建築時代 | 万治3(1660)年 |
改修年代 | 延享2(1745)年 |
設計監理 | 公財)文化財建造物保存技術協会 |
施工 | 田中社寺株式会社 |
ご支援いただきました
御信徒の皆様をはじめ、
関係各位に対して
心から感謝の意を表します。